• 土谷守生

ステンマルクも一目置いた稀代のスラローマー 海和俊宏




  最初に海和と会ったのは、1974年、鹿島槍スキー場で開催された「ロシニョールレーシングキャンプ」だった。当時、海和は山形県の山形県立新庄農業高校向井町分校(定時制)に通う高校生だった。スポーツ業界紙の記者だった筆者は、クライアントである三井物産スポーツ用品(ロシニョールの輸入発売元)の要請で初の雪上取材に出かけた。  記憶が正しければ外国からコーチを招いた初のレーシングキャンプだったと思う。コーチとして来日したのは、フランス女子チームを世界最強チームに育てあげたオノレ・ド・ボネだった。このキャンプに参加した海和は、別格の滑りを披露した。無駄な動きのないきれいなフォームは、ため息を誘う。この時は、技術的な知識がなかったが、それでもブレーキングのない海和の滑りは理に適っていると思った。  1977年、本格的にワールドカップな参戦を開始した。ウェンゲンで12位、そしてサンアントンのスラロームで市村と同じ7位に入り、優勝したステンマルクには1秒16差と一気に世界への仲間入りを果たした。世界を代表するスラローマーたちを相手に、まさにスーパーランだった。 この時のリザルツは、1位/ステンマルク、2位/クラウス・ハイデッガー(オーストリア)とはラップとの差0秒09、3位/パウロ・フロンメルト(リヒテンシュタイン)0秒14差、4位/フランコ・ビエラー(イタリア)0秒51、5位/ピエロ・グロス(イタリア)0秒66、6位/クリスチャン・ノイロイター(西ドイツ)1秒06差、そして海和の7位1秒16差。上位選手の顔ぶれとタイム差から、いかにこの成績がすごかったか、ご理解いただけると思う。この一発で海和は、日本選手初の第1シード入りを果たした。 日本悲願の表彰台も見える位置にまで上昇してきた翌1978年、絶好調でシーズンインしたこの年に、海和は「栄光と挫折」を一遍に味わうことになる。1月5日、西ドイツのオーベルシュタウヘンで行われたスラローム第2戦、絶対王者、ステンマルクが優勝を飾ったこのレースで海和は、史上最高となる表彰台目前の5位入賞を果たした。ステンマルクに遅れること1秒89と2度目の1秒台にまで迫った。西ドイツの至宝、ノイロイターも片目のスラローマー、ファウスト・ラディチ(イタリア)もパオロ・デ・キエサ(イタリア)も海和を上回ることはできなかった。 2年後に迫ったオリンピック(1980年レークプラシッド)でもメダル獲得も夢ではないところまできていたが、そのシーズンの夏の遠征でとんでもない悪夢に見舞われてしまった。次のシーズンへ向けてジャパンチームは、オーストリアのスチューバイタールで合宿を行った。そこでアキレス腱を切断してしまった。  オーストリアで緊急手術を受けて10日間入院の後帰国。そこから「海和復活プロジェクト」が組まれ、日本アルペンスキー界の悲鳴にも似た祈りを受けて、日本鋼管病院(神奈川県川崎市)のドクター栗山節郎を中心としたプロジェクトメンバーたちが立ち上がった。  この後の詳細は省くが、なんと半年後にはワールドカップに出場するという驚異的な回復を見せた。1979年、富良野での大会で15位に入り、日本のファンに「海和健在」をアピール、みごとに第一線に戻ってきた。しかし、当の海和は、技術的にしっくりこないことを感じていた。そんなときに、当時スウェーデンチームのコーチをしていたシャテラードから「右足に力が乗っていないので左ターンが悪い」と指摘を受けた。1980年、スキーコンプ創刊号の海和のインタビューで当時を振り返り、「たしかに左足に比べて右足が曲がらず靴でカバーする方法で滑っていた」と語っていた。  この課題を克服して1981年には、13位、14位、10位、13位、15位と5戦で15位以内をマークするなど日本のエースとしての輝きを取り戻した。そして1984年サラエボオリンピック12位を置き土産に現役を退いた。  現在、北志賀高原よませ温泉スキー場で「ホテルカイワ」とスキースクールを運営、子供たちにスキーの楽しさ伝えている。

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