• 土谷守生

プレッシャーと戦った16シーズン 木村公宣



※写真2は中学時代


 その日、志賀高原・焼額山は気温マイナス4度、雪がちらついていた。2003年3月8日、ワールドカップ・男子回転が開かれようとしていた。木村公宣はラストランに地元、日本での大会を選んだ。  事前に木村の引退を知った多くのファンがコースサイドを埋めた。第1シードに上り詰めた木村のゼッケンは51番。もはや2本目に進出するのも厳しいスタート順だ。旗門数58、ターニングゲート56のセットに飛び込んでいった木村だが、ファンの大歓声の期待とは裏腹にもう全盛時の滑りではなかった。それでも木村の中では必死のチャレンジをしている。滑りの内容を知っているので、フィニッシュ後、あえてタイムボードを見ることもなかった。ラップを奪ったライナー・シェーンフェルダー(AUT)に3.61差だった。この瞬間、木村の16シーズンは終わった。  1本目敗退でラストランはどうなるのか、と思っていたら2本目、本選スタートの前に滑ることになった。FISとしても第1シード選手として活躍しただけに引退セレモニーの舞台は、ギャラリーが最も注目してくれる2本目のトップにセッティングしてくれた。そして木村最後の滑りがスタートした。会場全体が木村の引退を惜しむように大歓声が沸き起こり、場内アナウンスがまったく聞こえない。木村はゆっくりゆっくり右、左とセーフティーネットぎりぎりまで近づきファンに別れを告げる。泣き出すファンもいた。木村が近寄ってくると握手を求める人も。  木村はフィニッシュゾーンまであと3旗門のところでスキーを外し、両手にスキーを持ってフィニッシュ。そしてスキーを置くとコースに向かってひざまづき、滑ってきたバーンにさよならのキスをした。

 青森県の名門、東奥義塾高校出身。先輩には岩谷高峰、石岡千秋、千葉信哉、熊谷克仁などオリンピックに出場した選手を数多く輩出した名門中の名門である。木村は、身長は180センチと大きいが体が細く、傍から見ているとなんとも頼りない。しかし、技術的には高校生として全国でもトップクラスといわれ将来は大いに嘱望された。1986/1987シーズンには高校1年でジャパンチームのジュニアに抜擢され、ここから長い長い木村の世界への戦いが始まった。  1992年、フランスのアルベールビルで行われたオリンピックに初めて選ばれた。取材していた私は、当然のようにスラロームと大回転限定の出場だと思っていたが、なんとスーパーG、そしてコンビネーションのダウンヒルにも出場した。木村の将来を見据えてあえてチャレンジさせたのだろう。スピード系種目はバルディゼールで行われたが、木村はコンビネーション・ダウンヒルに石岡拓也とともに挑んだ。コース途中に大きな岩の壁が右側にあり、下のオーロラビジョンで見ていると、その岩の入り口で一瞬バランスを崩して岩のほうへ体ごと持っていかれた。  多くのギャラリーも「オーッ」と叫ぶほどの危ないところだったが、本人は意外とケロッとしていた。恐らく、必死で前だけを見ていて、その岩のすぐ横だったことを知らなかったのではないか。スーパーG33位、コンビネーション15位と2種目ともしっかり完走している。このスピード系へのチャレンジがその後のスラローマー木村に大きな影響を与えたことは想像に難くない。  1995年のワールドカップ、時代はトンバ全盛の時だった。12月12日、このシーズンのスラロームの開幕戦はイタリアのセストリエールで行われた。  地元イタリアの英雄、トンバの大応援団が故郷ボローニャから大挙して詰めかけ、会場ははじまる前から熱気ムンムン。そんな中で木村は、優勝したトンバに3秒17差で初の15位以内となる12位に飛び込んだ。これをきっかけに木村はこのシーズン、12位、11位と上位が狙えるランクを連発した後、1月早々にドイツのガルミッシュパルテンキルヘンで行われた大会で、ついに8位とシングルランカーとなった。  1998年、年明け早々に1月4日、クラニスカゴラでのスラロームで自己最高となる4位、それもラップのトーマス・スタンガッシンガー(AUT)に0秒33差という素晴らしい内容だった。さらに、この後、1月18日、スイスのベイゾナで行われたレースで木村は悲願の表彰台(3位)に立った。テレビ、新聞は一斉に「メダル獲得」と大々的に報じ、大騒ぎとなった。これが、これまで経験したことのない大きなプレッシャーとなって木村を苦しめた。  2月18日、運命の長野オリンピック最終日、志賀高原焼額山で男子スラロームが行われた。私はゴールエリアで東奥義塾高校の恩師、川村勝儀と当時ヘッドコーチだった古川年正の3人で見ていた。オーロラビジョンに映し出される木村の一挙手一投足に注目した。大歓声の中、木村がスタートした。無難に滑っている。大きな失敗がなく滑っていることで、ギャラリーと「けっぱれキミノブ!」の弘前応援団も大興奮している。しかし、明らかに体の動きが硬く、スキーが走らない。川村の顔が曇る。1本目、ラップに1秒以上の差をつけられ、この時点で8位以内の入賞は難しくなった。  そして2本目、いつもの流れるような木村の滑りが爆発することなく、入賞圏外に遠く去ってしまった。ミックスゾーンでのインタビュー終了後、うなだれて川村と古川の前にきた木村は開口一番、「緊張して自分の滑りができませんでした」というなり、目は遠くを見つめていた。聞くと、朝、食事の時から手が震え、これまで経験したことのない緊張感に襲われていたという。  岡部哲也から佐々木明が出現するまで、長きに渡りしっかりチームを支えてくれた功績はあまりにも大きい。ワールドカップ3位1回、4位4回、5位3回、シーズンのトータルランク5位は、今も破られていない日本選手最高位である。

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