• 土谷守生

“ラストサムライ”満身創痍の戦い 湯浅直樹



 2005年、12月22日、クラニスカゴラ(SLO)で行われたワールドカップのスラロームで、自身2度目となる2本目進出(27位)を果たし、まだ荒れていない3番目のスタートから初のラップタイム、そして初のシングルランクとなる7位に飛び込んできた。ラップのジョルジオ・ロッカ(ITA)に1秒62差と上々の内容だった。 遡ること1年前のセストリエールで、湯浅は初の2本目進出を果たした。56番スタートから2本目に残れるぎりぎりの29位だった。最終結果は21位で初のワールドカップポイントを獲得した。 オリンピックが終わった2006年のオフシーズン、トレーニングテーマを「バランスに重点を置いたコーディネーション系のトレーニング」に置いた。雪上では今まで滑りはすべて忘れ、タイムは気にせずバランスのみに徹した滑りをしてきた。攻めるスキーはせず、丁寧に滑る。それは攻撃的な滑りが身上の湯浅にとって、なんとももどかしくストレスのたまるものだった。湯浅は、その時のことをスキーコンプ2006年3月号のインタビューでこう答えている。 「性格的に速く滑っているヤツがいたら負けたくない」と思い、その感情を抑えることができなかった。そして「あの選手が滑った滑走ラインを、俺はもっと直線的なラインでいけるぞ」って思っていたこれまでのスタイルを抑えて、丁寧に滑ることを心掛けてトレーニングに取り組んだという。 その夏のアメリカ遠征で思わぬアクシデントに見舞われる。トレーニングでコブを滑っている時に膝の関節の間を削ってしまった。帰国後、病院へ行くと「完治させるには移植しかない」という衝撃的な診断だった。移植すれば完治まで約10か月はかかる。オリンピックに間に合わない。そこで湯浅が選択したのは、痛みは残るが滑れないわけじゃないので応急処置で済ませる、というものだった。 しかし、トレーニングをこなす中で自信をつけるタイプの湯浅にとって、満足なトレーニングができない日々にもがき苦しみ、必死に耐えた。オリンピックシーズンの2005/2006シーズン、当然不安の中でワールドカップの開幕を迎えた。クラニスカゴラまで思うような結果を残すことはできなかった。しかし、オリンピックには出場したい、それには誰が見ても文句のない結果を残したいという思いは強かった。 膝という“爆弾”を抱えながら挑んだクラニスカゴラで7位、しかも2本目はラップタイム。それが2月に開催されたトリノオリンピックの7位入賞へとつながる。選手として致命傷になりかねないけがに見舞われたシーズンにワールドカップ、そしてオリンピックでも結果を残すという、奇跡的な活躍を見せた。だが、湯浅のほんとうの試練はここからはじまったと言っていい。 回りは大きな期待をかける。だが、2006年以降、湯浅はDNF(途中棄権)のオンパレードで「完走できない選手」という屈辱的なレッテルまで貼られてしまった。完走率の低さは安定感のなさとバランスの悪さが原因だった。いいポジションに乗ることはできるが、そのポジションをキープすることができない。これがコースアウトを招いていた大きな要因だった。 ある時、顔見知りのスロベニアのコーチに「腰の位置が低すぎる。高くしてみてはどうか」とアドバイスももらい、これを試したところバランスもよく、滑りが安定してきた。その結果、2010年に8位、2011年に10位、2012年5位2回、ラップとのタイム差も1秒を切るようになった。迎えた2013年12月13日、マドンナディカンピリオ(ITA)で行われたスラロームで、湯浅はとうとう表彰台(3位)に立った。日本選手として4人目の快挙である。優勝したマルセル・ヒルシャー(AUT)とは2秒28差だった。「完走できない選手」という酷評にも耐えて、とうとうここまでたどり着いた。  2011年に開催された世界選手権大会では6位入賞も果たし、日本選手では誰も達成していない「世界の3大大会」すべてで結果を残した。学生時代(北海道東海大学)バウムガルテン賞という表彰を受けた。これは、イタリアのバウムガルテン家が創設したもので、選手をしていた息子が留学していたアメリカで交通事故に遭い、亡くなったことで学業に励み、スキー選手としても将来ある選手に支援しようと創設したもので、湯浅は日本の選手としてはじめて受賞した。この「文武両道」の精神は、社会人になった後も受け継がれ、中京大学大学院まで進みレーサーと勉学を両立させてきた。これも湯浅の、日本アルペン界に残した大きな功績である。  腰、そして膝の故障を抱えて戦ってきた湯浅だが、2018年はワールドカップ、オリンピックとも膝の状態が悪化し、満足な滑りができないままに終了した。  これまで所属してきた「スポーツアルペンスキークラブ(ジャパーナ)との契約が終了したこともあって、「湯浅引退」という噂が流れてきた。湯浅はオリンピックが終了した2月、思い切って膝の手術をした。6月に湯浅に会って、今後について聞いてみた。「手術はうまくいきました。経過も良好で痛みも消えました。所属先との契約が終わったことで、今後続けていけるかどうか不安でしたが、新しいスキーも見つかり、現役続行できるめどが立ちました」と表情は明るい。ジャパンチームのリストから名前は消えたが、不完全燃焼のまま終わりたくないという湯浅の強い意志が現役続行を決意させた。  35歳、平成最後のサムライ、湯浅直樹がけがと年齢に再チャレンジするシーズンがスタートした。

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