• 土谷守生

一時代築いたレジェンド 見谷昌禧



 見谷昌禧。1950年代から1960年代にかけて活躍した日本を代表する選手である。小樽潮陵高校時代、インターハイの大回転で優勝して注目され、早稲田大学に進んだ1959年の全日本スキー選手権大会の回転で猪谷千春に次ぐ2位となり1960年、スコーバレー(USA)オリンピックの代表に選出される。オリンピックでは滑降53位、大回転では出場4選手中猪谷の23位に次ぐ33位となった。 1962年はフランスのシャモニーで開催された世界選手権とユニバーシアードに出場し、世界選手権では回転21位、大回転28位、そしてユニバーシアードでは回転で銅メダルを獲得し、期待通りの成績を残した。その後、2度目のオリンピックとなる1964年、インスブルックオリンピックの代表を目指すも代表選考会の滑降で転倒し、重症を負ってこれが致命傷となって選手を引退した。 引退後、プロスキーヤ―に転向、1968年第1回プロスキーフェスティバルに出場した。初のこのイベントは賞金が懸けられ3種目の合計で競われる。その中で最大のウリが100本ストレートだった。見谷はオリンピックに出場した選手であり実力に抜けた存在。その実力どおりラップタイムを叩き出した。しかし、ここで予期せぬことが起きた。タイム計時にミスが出て再レースとなったのだ。100本ものポールを全力で滑った後である。両脚はガクガクの中でベストな滑りは期待できない。案の定ゴール手前で力尽き失敗してしまった。結局総合3位に終わったが、実力どおり見せ場は十分作った。 1972年日本初の札幌オリンピックの開催が決定、それに向けた選手強化の一貫として1968/69シーズン、代表候補の柏木正義、佐々木富雄を率いてコーチとしてワールドカップに参戦する。そして1972年の札幌オリンピックではコーチとして参加した。 ここまでは選手、コーチとして直接レース界に関わって活動してきたが、スキースクールを運営するかたわら、ジャーナリストとして技術書を相次いで出版、またフォトグラファーとしてより選手の動きを解析すべく分解写真の撮影にも注力した。選手引退後もレースへの熱い思いがあふれており、レジェンド見谷は今も、そしてこれからもしっかりレース界を見つめている。(文中敬称略) 写真上から)

①1960年スコーバレーオリンピックに出場、左から3人目が見谷、その左隣は猪谷 ②誰にも真似できない独特なフォームで一時代を築いた

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