• 土谷守生

唯一のメダリスト 猪谷千春




 1956年イタリアのコルティナダンペッツォで開催された第7回冬季オリンピックで猪谷千春さんが回転で銀メダルを獲得した。終戦から11年、まだ復興半ばだったこの時代に多くの日本人を元気にした快挙だった。  実はこの「銀メダル」には、2本目終了後「片ハン」(片足反則)疑惑が生じ、場合によっては銀メダルから6位に転落する危機があった。スキーコンプでは当時アルペン監督だった野崎彊さんと猪谷千春さんに対談をしてもらい「コルティナの銀メダルを検証する」という長編企画を組んだ。大きな反響を呼んだこの対談で、我々も知らないことが沢山出てきた。とくに2本目に失敗すると失格ではなく定められたペナルティタイムが加算されるというルールがあるということである。  猪谷さんは2本目にメダル獲得を狙って攻めに攻めた。タイムは三冠王を獲得したトニー・ザイラー(AUT)に次ぐセカンドラップをマークしたのだ。問題となった旗門ではきわどくインを突いてややバランスを崩した。これが「片ハン」と判定された。その判定の裏にはコルティナの旗門員や審判には日本がどこにある国かわからない、そんな東洋の聞いたこともない国の選手がヨーロッパの強い選手がゴロゴロいる中でこんな速いタイムを出せるはずがない。偏見と感情がその「片ハン」の判定を大きく左右した。  しかし、今のポールと違って山から切り出した細めの丸太である。片ハンなんかしようものなら足が折れてしまう。片ハンなら6位になってしまい、日本アルペン史が変わってしまう。日本は当然猛烈に抗議した。そして判定はセーフとなり猪谷さんの銀メダルは確定した。あれから62年、今だメダル獲得選手が出ておらず、いかにこの時の「猪谷選手」が当時の外国選手のレベルにあったかを物語っている。  2年後のバドガシュタイン(AUT)で行われた世界選手権でも回転で銀メダルを獲得、名実ともに「世界のスラローマー」としての知られる存在になった。  猪谷さんとはじめて言葉を交わしたのはIOC(国際オリンピック委員会)の理事に就任した1982年に秋にかつての仲間が集まって就任祝いが行われた。私は面識がなかったので招待を受けなかったが、出席した日本スキー写真家協会の会長、一柳定夫さんから「土谷さん、あんたたしか北見の出身だよね。実は明日、猪谷さんのIOC理事就任祝いを六本木のガスライトというクラブでやるんだけどそこの経営者が北見の人で猪谷さん時代に選手だった湯浅栄治さんだけど知っている?」と電話がきた。湯浅さん(選手時代日本楽器製造に所属していた選手)の名前はその時はじめて聞いたのだが、猪谷さん時代に活躍した選手だったことが後からわかり、一柳さんから「猪谷さんと湯浅さんを紹介するからおいでよ」と言ってもらった。  もちろんふたつ返事で、カメラとメモ帳を片手に。当日六本木のガスライトへ伺った。会場には日本のアルペン界の歴史という人物が勢ぞろいしていて、一番の若造である私は誰に挨拶していいかうろうろ。セレモニーがひと通り終わって一柳さんから猪谷さん、そして大先輩の湯浅さんを紹介してもらい、お2人ともこの時はじめて言葉を交わした。発起人のひとりである杉山進さんはSIA(当時の日本職業スキー教師協会)を通じてスポーツ業界紙の記者時代からの知り合いで、出席したメンバーでは数少ない顔見知りだった。  猪谷さんとは、じっくり話を聞くということはできなかったが、銀メダリストの強いオーラを感じながら夢のような2時間を過ごさせていただいた。

写真上から)

①1956年コルティナダンペッツォでの2本目の滑り

②当時ではめずらしい分解写真。1958年バドガシュタイン世界選手権で銅メダルを獲得した回転での滑り ③1982年IOC理事就任のパーティーで当時の監督、野崎彊さんの挨拶を聞く若き日の猪谷さん

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