• 土谷守生

悲運のスラローマー 児玉修




 児玉修は、ワールドカップで10位以内に入賞したのは1980年と1984年に記録した2戦しかない。しかし、その2戦のうち1戦が、柏木正義も市村政美も、そして海和俊宏も成し得なかった“大記録”を達成している。  1980年、1月8日、当時の西ドイツのレングリースで、初めて海和も成し得なかった記録をたたき出した。それはここでのキーワード、ラップとのタイム差である。このレースで優勝したのは、パワースラロームが全盛を迎えていたこの時に、長身ではあったがパワースラロームとはほど遠い、細い体のペーター・ポパンゲロフ(ブルガリア)だった。児玉はこのレースで31番スタートから1本目11位につけ2本目、果敢に攻めて4番目のタイムをマークして自身初となる6位と上位入賞を果たした。そしてトータルのタイム差は、日本選手初となる「1秒の壁」を破る0秒96差という見事な内容だった。児玉が長い選手人生の中で最も目立った“瞬間”だった。  この年開催されたレークプラシッドオリンピック代表の座をつかんだ。 2度目のオリンピック出場は、1984年サラエボ(当時のユーゴスラビア)だったが、このシーズンの12月20日、マドンナディカンピリオで開催されたレースで、児玉は2度目の上位入賞となる10位と結果を残した。それも優勝したステンマルクに1秒78差という素晴らしい内容だった。2度の入賞がいずれもオリンピックイヤーで、オリンピック代表の座をつかむというのが児玉らしい。  彼はとびぬけた運動神経を持った選手でもなく、またスキーセンスにも秀でていた選手でもなかった。ただ、人一倍負けず嫌いだったことが海和に次ぐナンバー2に登りつめた要因だと思う。その児玉が、選手人生で最大の悔しさを露にしたのが1984年サラエボオリンピックにおける“失格”だった。  この大会から正式に採用された「可倒式ポール」の存在が児玉の人生を大きく変えた。今では当たり前になっている可倒式ポールだが、はじめて採用されたことで旗門員の目が慣れていなかった。そのことが大きな要因となって悲劇が起きた。  児玉は大健闘して「13位」となった。猪谷千春が1956年、コルティナダンペッツォで獲得した銀メダルに次ぐ成績であり、当時としては評価すべき内容だった。しかも海和を上回る成績を収めたのである。この時点までは……。  会場ではフィル・メーアとスティーブ・メーアがワンツーを決めたことでアメリカ応援団が大騒ぎしている。その片隅で日本選手団も児玉を中心に喜びあっている。その数時間後、他の国のコーチから「児玉は頑張ったのに失格になって残念だったね」と日本のチーム関係者に教えてくれた。  なんと児玉は「旗門不通過」になっていたのだ。可倒式ポールは、旗門員の位置、つまり真横からだと選手がアタックした瞬間に倒れてしまうので、片ハン(片足反則)したかどうか初めて見る旗門員には判別するのは極めて難しい。  児玉の前の選手にひとり失格が出たので「12位」となるとこだった。しかし、残念ながら、判定はオフィシャルリザルトとなり「Osamu KODAMA」の名前が掲ることはなかった。その12位に繰り上がったのは、なんと「Toshihiro KAIWA」だった。  1984年のスキーコンプ5月号に、アンオフィシャルで「13位」と入ったリザルツを入手、「13位児玉修」のところに赤でアンダーラインを入れて表紙にした。この表紙は読者にも大きな反響があった。その雑誌をIOC(国際オリンピック委員会)とFIS(国際スキー連盟)に送り付けて抗議した。判定がくつがえらないことはわかっていたが……。  自信をもって「児玉は片ハンしていない」と言えたのは、正面から捉えた映像を見たからである。2本目、上位進出を狙ってかなりインを突いていたため微妙ではあったが、間違いなくクリアしていた、と今も思っている。  この表紙の雑誌を、「オサ、俺個人もスキーコンプも12位だったと思っているよ」とメッセージを添えて児玉に送った。すぐに連絡があり、「ありがとうございます。あの表紙、うれしかったですよ。この雑誌、一生大切にもっています」と感謝を述べてくれた。これが「悲運」のレーサーたる理由である。  サラエボオリンピックの翌年、1985年3月21日、小さいころから思い出がいっぱい詰まった野沢温泉スキー場で開催されたFISシュナイダーカップを最後にレーシングピステを静かに去った。  スキーコンプの表紙の写真は、サラエボオリンピックの失格を抗議したアンオフィシャルのリザルツ。13位に「KODAMA O」の名前が。12位以内に1人失格がでて12位になっていたはずだった。

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