• 土谷守生

日本選手最高ランクをマークしたダウンヒラー 相原博之






 最初に相原博之という選手に出会ったのは、日本体育大学に入学して間もない1980年7月のことだった。スキーコンプを創刊して半年が過ぎたころ、編集部にいた前田という女性が「私の知り合いでダウンヒル専門の選手がいるんですがインタビューしますか?」と聞いてきた。片桐幹雄がシーズン終了後に引退を表明した直後だったので、これは面白かもしれないということで当時九段下にあった会社の近くの編集会議で使っていた喫茶店まで来てもらった。  第一印象はガッチリした体でダウンヒル向きだなということと、まだ少年のようなあどけない表情をしていたこと。しかし、技術的にはすでに日本ではトップレベルにいた。 1979年、高校3年の時に出場したニセコ滑降では片桐幹雄に1.7秒差に迫っており、ノンストップトレーニングでは1.2秒差まで迫っていた。その片桐に憧れ目標として明確になったのがこのニセコ滑降だった。  あのインタビューから7年後、1987年ワールドカップ・ダウンヒルが富良野で開催された。2月28日、日本ダウンヒル界にとって最良の日が訪れた。国内での開催とあって燃えに燃えていた相原だが、ワールドカップではまだこの時点で15位以内に入ったことがない。しかし、時間はかかったがその分、ヨーロッパでの厳しい戦いの中で経験を積んできた。しかも今回は滑り慣れた富良野とあって一発を狙ってのトライだ。  相原のスタートまでにペーター・ミューラー(SUI)が1:53.89の速いラップタイムをマーク、2位のマーク・ジラルデリ(LUX)に0.75差の大差をつけてすでに優勝を決定づけていた。相原は思い切ったレースを展開、緩斜面もスピードを落とさず会心の滑りが最後まで続き、ミューラーに1.73秒差の9位に飛び込んできた。それもペーター・ビルンスベルガーやレオンハルト・シュトックといった実力者を抜き去ってのシングルリザルツを獲得した。  憧れ、そして目標にしてきた片桐幹雄を順位の上で抜き去り、日本ダウンヒル界に最高の結果をもたらせた。日本選手でもやれる、そう思わせた相原の一発効果は大きく、この後、千葉信哉のベイゾナでの12位に結び付けた。  現在、世界で戦えるダウンヒル選手はいない。したがってこの相原の9位が“不滅”の記録になるかも知れない。

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