• 土谷守生

57番スタートから中間ラップの激走で7位 市村政美




  1973年、日本ではじめて開催されたワールドカップで日本選手初の10位入賞の快挙から4年後、世界への道を大きく前進させた選手がいる。それが群馬県水上出身の市村政美である。小柄ながらシャープなスキー操作は日本選手の中でもとびぬけており、この市村も柏木と同じように初チャレンジのシーズンから「それほど外国の選手と差があるとも思っていなかった」と言っている。このあたりのポジティブな思考が“並みの選手”とは違う。1972年札幌オリンピックに初出場した市村は、柏木や古川年正、千葉晴久らの先輩を尻目にスラロームで日本選手最高の17位という結果を残している。  その市村によって1976年、アルペンレーサーにとってサンクチュアリともいうべきオーストアリアのキッツビューエルで大変な快挙が達成された。彼には自分のパフォーマンスを十分発揮するための条件があった。それは、時期ははっきりしないがこの頃から各会場でコースに水を撒くようになったことである。水を撒いてバーンを凍らせ、下位の選手もトップシード選手と同条件で滑らせるためである。水を撒く前の大会では、50番以降のゼッケンで出場していた市村ら日本選手は、まるでモーグルコースのように掘れたコースで戦わなければならず、とてもトップ選手に挑むことなどできなかった。  1976年1月24日、スラローム第5戦はキッツビューエルで開催された。  このレースでの市村のゼッケンは「57番」である。水を撒ことにより下位スタート選手にとって、以前より条件は良くなった。しかし、それでも上から水を撒いただけのコースは、ムラがあり、上から数センチが凍っているだけで30人も滑れば当然荒れてくる。これが50番台以降になるととても上位シード選手と同じ条件というわけにはいかない。  1本目、当時絶好調だったイタリアのピエロ・グロスがラップタイムをマークしたが、市村は上位進出不可能ともいえる「57番」から1秒52差でつけた。これだけでも、これまでの日本選手との差を考えると“快挙”といっていい内容だった。その上2本目、約4万人が詰めかけたキッツビューエルの大観衆が一斉に「イチムラ」コールで後押しをしてくれた。外国の会場でこれほど日本選手が応援されたのはこれがはじめてだと思う。  2本目、15番という初の好スタート順を得た市村は、はじめて荒れていないコースを見て「これで勝負できる」とはっきり確信したと言う。その市村、自信を持って攻めに攻めた。1本目ラップのグロスの中間ラップは26秒98、2本目逆転優勝したステンマルクの中間タイムは26秒97。世界を代表するスラローマーを相手に、なんと市村が中間ラップをマークしたのだ。  2本目のラップタイムはステンマルクに遅れたものの、グロスには0秒30上回った。トータルタイム1分50秒53、優勝したステンマルクとのタイム差2秒79の7位(西ドイツのヴォルフガング・ジュンギンガーと同タイム7位)というすべてがこれまでの記録を上回った。2本目の中間地点までは、間違いなく“世界一”だったのである。  その市村、選手引退後はジャパンスキーチームのコーチを務めた後、現在はレーシングサテライト「登龍門」を主宰、ジュニアからシニアまで豊富なレース経験を生かして実践に基づいた技術理論をベースに指導している。

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