• 土谷守生

65番スタートから2位のミラクル 佐々木明

 2003年1月19日。場所はスイスのウェンゲンである。この日、ワールドカップ男子回転第5戦が開催された。日本からは皆川賢太郎、木村公宣、そして若き佐々木明の3選手が出場した。コースプロフィールを紹介しておこう。  スタート地点1475m、ゴール地点1285m、標高差190m、旗門(1~2本とも同じ)60、ターニングゲート58、バーンコンディションはハード、そして気温はスタート地点マイナス3度、ゴール地点マイナス2度、晴天という申し分ない条件である。  実績のない佐々木のスタートは65番、2本目進出も難しいというスタート順である。かつてステンマルクが70番代のスタートから7位に飛び込んできて大騒ぎとなったことがある。  1本目、36番スタートの皆川は30位以内に入れず、53番スタートの木村はぎりぎり30番で通過した。そして65番にスタートした佐々木は、ノーシードから気負いもなく伸び伸びとポールへ飛び込んでいく。滑走ラインもトップ―シードと変わらず、インを鋭く突っ込んでいく。あきらかに下位シード選手の滑りではない。  その予感が歓声に変わる。フィニッシュタイム「54.49」、同じラップタイムのジョルジオ・ロッカ(ITA)とイビッツァ・コステリッチ(CRO)に0.57差の7位に飛び込んできた。あのステンマルクと同じ、ノーシードから7位である。だが、佐々木のほんとうのミラクルはこれからである。  1本目、はじめて上位に入った選手の多くは初のワールドカップポイントを獲得したい、順位を守りたいと思うあまり2本目は慎重に滑る選手が多い。しかし、“ミラクル男”佐々木にそれは通用しない。 24番スタートの佐々木は、攻めに攻めた。コースアウトも恐れずインを突く滑りが爆発して、6人を残してその時点でラップタイムをマークしている。28番までフィニッシュしても佐々木はリーディングボードの前に立っている。残るは1本目ラップのロッカとコステリッチの2人だけ。コステリッチが途中バランスを崩してタイムを落とし、残るロッカも佐々木のタイムを越えることはできなかった。ロッカは1本目のタイムを守って優勝、佐々木は7位から2本目ラップライムというミラクルを起こして2位の快挙を達成した。  佐々木は1981年9月26日、北海道亀田郡大野町で生まれた。大野町は函館市にほど近い町で、2006年に新設合併して北斗市となった。3歳でスキーをはじめたが、同地は道内でも雪が少ない“温暖の地”である。とてもレース環境に恵まれた場所とはいえない。そこで、幾多のオリンピック選手を生んだ小樽へ通うことを選択しだ。  選んだコーチは木村仁である。木村は、岡部哲也のジュニア時代にレーサーとしての基礎を作り上げた「恩師」であることは知られている。木村は、佐々木の身体能力の高さを早くから見抜き、限りない可能性を見出していた。  佐々木の滑りを最初に見たのは、かもい岳だったと思うが残念ながら記憶に薄い。よく覚えているのは、1996年に安比高原スキー場で行われたインターハイ(全国高等学校スキー大会)。この時、木村と木村の奥さん、そして佐々木のお母さんと同じ宿に泊まった。佐々木のお母さんと会ったのはこの時がはじめてで、小樽へ通わせたこと、名コーチ、木村と出会ったことを大変喜んでいた。  小樽の名門、北照高校に進んだ佐々木は、1年の時にジャパンチームのジュニアメンバーに抜擢された。このころから、目標は明確だった。それは「世界」と名の付く大会で優勝すること、だった。ここが並みの選手とは違う。多くの選手たちに目標を聞くと、多くが「オリンピックに出たい、世界選手権に出たい、ジャパンチームに入りたい」と答える。しかし、佐々木は「勝つ」と言う。  一方では、「スキーは遊びの延長」と自由奔放なところが他の選手とは大きく異なるところで、ややもすると我ままと捉えられ、選手仲間やコーチからも距離を置かれることもあった。その性格をうまく引き出したのが木村だった。要点だけをボソッボソッというコーチングスタイルが佐々木に合っていたようだ。  1996年、カナダへはじめ海外遠征へ行き、「世界」を見てきた。はじめて出場した世界選手権大会は2001年セストリエールで行われたが、スラローム19位というのがデビュー戦の成績だった。翌年の初出場したオリンピック(ソルトレーク)ではスラローム途中棄権、大回転34位に終わった。  しかし、敗北の中にも佐々木は独特の感性で手ごたえを感じていた。そして迎えた2003年、ウェンゲンでの65番からの一発である。このシーズン、シュラドミング8位、志賀高原6位と10位以内に3度入り、トップシード選手として「世界」の仲間入りを果たした。  佐々木は2006シーズンにはシュラドミングと志賀高原で2度2位を記録、ワールドカップにおける日本選手初の優勝も見えるところまで登り詰めてきた。しかし、この後、皮肉なもので身体能力があまりに高いための“悲劇”に見舞われる。    2010年、あっさりとレーシングピステに別れを告げた。いかにも佐々木らしい。  しかし、優勝まで0.04秒差、2位3回というワールドカップがスタートして日本選手最高の記録を残してくれた男の引退は、果たしてハッピーリタイヤメントだったのか。2018年、5月7日、全日本スキー連盟のSNOW AWARDで久々に会ったが、遠くから「土谷さん、お久しぶりです」と満面に笑みをたたえて走り寄ってくれた。  現在SNOW JAPANのアドバイザーとして若い選手の育成に乗り出しているが、佐々木にしかない独特の感性でどんな選手を育ててくれるか楽しみだ。

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